【メディアレポーター・翻訳者・通訳士】福永なみさんインタビュー

2019年10月3日

ペラペラ

福永なみさんインタビュー記事アイキャッチ画像

語学力を活かし世界を相手に活躍する方にインタビューを行い、その仕事の魅力や大変だったこと、失敗談などのウラ側をお聞きする企画「ペラペラ先輩インタビュー」。

第一弾に登場していただく先輩は、メディアレポーターや通訳者、翻訳家など様々な職種を経験してきた福永なみさんです。

英語を好きになったきっかけ~留学体験のこと

── 英語を好きになったきっかけを教えてください。

鎌倉に住んでいたので外国人を見かけることも多く、小さい頃から洋楽が好きでコンサートに通い、レコードを買っては歌詞カードを眺め、深夜ラジオに耳を澄ましていました。中でもベストヒットUSAというラジオ番組をはじめ、ロックに夢中で。そのうち海外アーティストに会ってみたくなり、アメリカに行きたいと思ったのがきっかけですね。

── なるほど。それで英語を学ぼうと思ったのですか?

そうですね。ロックに憧れていたので、なんとなく英語圏のサブカル的な文化に触れて、英語を喋れるようになりたいなと思っていました。

── どのように英語学習をしていたのですか?

出来ることは何でもしました。小さい時から個人レッスンを受けたり、NHKのラジオ英会話や、リンガフォンというテキストとレコードがセットの音声教材を親に買ってもらいリスニング力を養ったり、いろいろ試しました。

── 英会話教室などにも通われましたか?

行かなかったですね。知り合いのツテを頼り、英語圏の先生に個人レッスンをつけてもらいました。最初は外国人に慣れるためという感じで、正しい紅茶のカップの持ち方など、お作法の指導もありましたね。

── 英語を習得する際に苦労された点などあれば教えてください。

オーストラリアに留学した時、学校やラジオで習っていたアメリカ英語とは異なる表現や発音にとまどい、同じ英語でもずいぶん違うことに驚きました。大学の授業をはじめ日常的なやりとりでも、ついアメリカ英語が口につき、その都度、直されるので慣れるまでに苦労しました。

── 就職する前にオーストラリアへ留学されています。そちらでは政府奨学生として行かれたそうですが、どのような経緯でしょうか?

大学1年の時、アメリカでのホームステイを斡旋する旅行会社の紹介で観光も兼ねて滞在したのですが、「自分は結構、英語が上手だな」と思ってしまいました。それで大学2年が終わった時にきちんとアメリカに留学したくなり、校内の留学制度を見つけ出したのですが、TOEFLのスコア提出が必須なのにTOEFL受験の申し込み期限はすでに過ぎていた。せっかく次の目標が定まったのにと肩を落としていたところオーストラリアと言う選択肢があることを知ります。アメリカは多分9月だったのですが、オーストラリアは新学期が始まるのが2月なので、「とりあえず試してみよう」という感じでTOEFLを受け、留学申請してみたら運良く受かった。当時、慶應義塾大学とメルボルン大学の交換留学制度が開始されてから2年目で、私は2回生として行くことが出来ました。

ところが、留学には1年間行ったのですが、自分が習った英語が通じませんでした。オーストラリアは基本的に英国式の英語が主流で “have” と”take”の動詞の使い方が異なります。“I’d like to have a shower.” となる。ついアメリカ式に”I’d like to take a shower.”と言うと ”You can’t take a shower, can you?” と言う感じで半ば揚げ足取りのように直される。でもそんなに強い口調で訂正されるのではなく一種の異文化コミュニケーションだったのでしょうが、当時は気を悪くしたのかと心配になったり、言いよどんだり、神経質になってしまいました。

インタビューに答える福永さんの画像

── オーストラリア留学はどのような感じだったのですか?

大学に行きましたが、どの授業を取るべきか誰もアドバイスを与えてくれず、それまで日本で学んでいた英文学の教室を覗いてみました。でも授業には全然ついて行けず頭を抱えてしまった。喋れないし、何から手をつけて良いのか分からない。毎週4、5冊、読書リストが出るのですが、本を探すのすら一苦労。読破できず、クラスは少人数制で読書感想を発表する番はすぐに回ってくる。一言も発することが出来ず、打ちのめされました。

住むところはインターナショナルハウスという寮に入ったのですが、しきたりがたくさんあり、夕食はアカデミックガウンを羽織って席につきます。しかも当時はアジア人と白人とで席が自然と別れ、アジアから来た留学生のテーブルに混ぜてもらうことが多かった。せっかくオーストラリアまで来たのに現地の学生の輪にも入れず焦る気持ちもありました。最初の1学期くらいは慣れないことが多く落ち込んでいたのですが、次第に昼食やお茶の時間に声をかけてくれる友達が出来、今度は寮を出て一緒にシェアハウスに住むことに。遊びも増え、社交の輪も広がって。そのおかげか帰国時には英語の聴き取りがずいぶん出来るようになり、かなり自由に喋れるようにもなりましたが、体重が10キロ増えるというおまけつきでした(笑)。

── 政府奨学生は成績評価の係数が2.30以上でなければならないと伺いました。福永さんは当時どのくらいの成績だったのですか?

当時はそういうのがありませんでした。最初の留学は大学間で交換留学制度が締結されていましたので、TOEFLのスコアと多分1、2年生時の学業成績で行けたのですが、二度目はオーストラリア政府奨学生として大学院へ留学し、面接など厳しかったです。オーストラリア大使館へ赴き、担当外交官との面接の場で留学に向けた熱意や学びたい分野について、かなりつっこんだ質問を受けました。

英語を使った仕事のこと

メディアレポーターの仕事

── 大学を卒業してからどんな仕事をされたのですか?

大学院を出てすぐ企業に就職したのではなく、テレビのレポーターのオーディションに臨み、受かったのでフリーランスとして仕事を始めました。

── メディアレポーターとは、どのような仕事ですか?

テレビなどのメディアに企画を出し、取材結果を現場やスタジオで報告する仕事です。裏方の仕事もかなり含まれ、取材対象者を決めたり、ロケハンに行き撮影許可を取ったり。デスクやディレクター、撮影や音声の担当、編集の方々、そしてプロデューサーにテレビ局の方など大勢の人達との連携作業も含まれます。

初仕事はいきなりニュージーランドへ取材に行き、テレビカメラに向かってレポートをまとめ、現地の政治家にインタビュー。何十人ものスタッフがひしめくスタジオ撮影や徹夜続きの収録なども経験しました。海外の街頭インタビューでは、まんべんなく生の声をすくうため出来るだけ簡潔に英語を操る工夫も必要ですし、その結果、視聴者の琴線に触れる何かを届けられれば頑張りも利きます。そして何より、英語も上達します。

とは言うものの仕事は大変で、毎回「どうしよう」と真っ青になりながらこなして行きましたが、取材の面白さを知り、十人に話を聞けば十の声があることを実感しました。

── いきなりカメラの前に立つのはかなり緊張しそうですね…

正直、口から心臓が飛び出るほど怖かったですね。特に震え上がったのは、日本の同時通訳の第一人者で國弘正雄さんという方がいらっしゃいましたが、その方と海外に取材に行った時です。國弘さんが現地の首相をはじめ高官に、私はその他大勢に話を聞くというスタイルでしたが、正確に英語を話すことはもちろん、物を知らない私にとって万事恐れ多く、ものすごく緊張しました。それでも元気良く、楽しそうにレポートするわけで、撮影中にNGをたくさん出してしまいました。

── メディアレポーターの仕事を通して、苦労された点や印象に残っていることなどあれば教えてください。

視聴率などもありますし、テレビは特に大変ですよね。自分よりずっと偉い方が共演者で、私の方が出演時間が長かったと文句を言われたこともありました。プロダクションに属していれば事務所が対処してくれますが、私は一人で動いていたので苦労しましたね。

── 撮影の裏側はどのような感じなのでしょうか?

どうしても欲しいネタがある時に、ストレートな英語でがむしゃらに話を取りに行くよりも、礼儀正しく洗練された物の言い方をすれば相手も心を許す。ぽろっと本音が出たり、面白い話が展開されればやっぱり嬉しいですよね。通訳者が立ち会うとワンクッション生じるためにその間に次の質問や話題を考えることが出来ますし、戦略的に都合が良い場合もあります。でも、自分から直接英語で話しかければ取材対象者から個人的に信頼されることもあるでしょう。言葉が出来るメリットはすごく多いと実感します。

インタビューに答える福永さんの画像

コーディネーターの仕事

── メディアレポーターと同時に海外メディアの日本取材のコーディネーターもなさっていたと伺いました。これは具体的にどんな仕事でしょうか?

例えば海外のテレビ局が岡田さんにインタビューしたいという場合、事務所に話を通しアポを取り、撮影隊が来日する前に岡田さんが心地よく話してくれるような撮影現場の環境を備品から何から整える。そして台本をもとに海外のディレクターと話し合い、彼らの来日を出迎え、取材撮影当日は岡田さんが素敵に見えるようディレクターやカメラマン、音声係と段取りを決め、岡田さん側のスタッフの了解を得る。さらに岡田さんの車の手配はもちろん、撮影終了後に打ち上げを予定しているなら隠れ家レストランを押さえておく。などなどたくさんあります。日本に不慣れな海外スタッフのお世話もありますし、アシスタントディレクターのような仕事や、にわか観光ガイドになったりすることも。

また、岡田さんのマネージャーさんとの交渉も必須で、8時過ぎの撮影はお断りと言われたら午前中に設定し、岡田さんが英語を話さなければ通訳もする。限られた予算と時間内で一人何役もこなす仕事がコーディネーターです。

── なろうと思ったきっかけは何ですか?

先輩が仕事を廻してくれたのが最初だと思います。私は雑誌の編集も経験していたので、海外に取材に行く際に様々な準備をはじめ現地を案内してくれるコーディネーターを雇うことが多く、仕事の内容は掴んでいました。

──コーディネーターの大変な点はどこですか?

特に海外メディアの場合、しょっちゅう要求が変わる点です。例えば急に鉄道駅で撮影と言われ、撮影許可がないのにスタッフが撮影を始めてしまい、叱られたり。駅構内の撮影には腕章をつけて臨む条件で準備もしたのに自国では腕章なんかつけたことがないとその場で拒否され、押し問答になったり。いくら事前に詳細なやりとりを重ねていても現場で食い違いが生じることも多く、大変でしたね。

── 面白かったことを教えてください。

裏話を聞けたり、出来上がった放送を目にして取材時の苦労や失敗を思い起こしたり。普段の生活では得難い経験を積むことが出来ます。

── ちなみにギャラは良かったですか?

ギャラはそうでもなかったですが、普通ならお目にかかれない方にお会いし、目から鱗のお話を伺うこともあります。あとはスタッフが一丸となり、もの創りに取り組む高揚感や連体感も楽しかったです。制作関連の仕事では、商談の通訳をする時とはまた違う緊張感と面白さがありますね。今はアプリが通訳をしてくれる時代ですし、事前の情報収集もはるかに充実しています。それでも「この人がいてくれると安心」と思っていただければ、その仕事はかなり成功したと言えるのではないでしょうか。

── コーディネーターとして活躍するにはどんなことをすれば良いですか?

アシスタントや秘書の方の仕事と同じで、要望を察知してそれに応える。そのためには事前の準備と段取りの手際の良さが問われます。

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ティナ

ティナ

フィリピン人の父と日本人の母を持つハーフです。10歳までフィリピンで過ごし、英語と日本語のバイリンガルです。英語学習に役立つ記事をお届けします。